「絵画」

 徳川家と深い関係を築き江戸狩野派を確立したのは狩野探幽である。探幽の時代、江戸では江戸城内の整備と城下町の建設が盛んで城内の殿舎や武家屋敷の装飾に数多くの絵画が必要とされた。そのため京にいた狩野派を江戸に呼び寄せ木挽町狩野派、中橋狩野派、浜町狩野派、探幽の系統の鍛冶橋狩野派4派が最も格の高い御目見え以上の御用絵師であった。さらにしたには御家人格の表絵師もいた。
 やまと絵の伝統を受け継ぐ土佐派も光起が京の宮廷絵所預かりとなり、分家筋の住吉家が幕府の奥絵師になっている。
 一方町民が起こした新しい美術様式に琳派がある。本阿弥光悦と俵屋宗達の流派のひとつだが、尾形光琳の作風が有名なため琳派と言われている。