理解・洞察・共有

 相手が何を見て、何を聞いて、どう感じ、何を考えているのかは本当は全く分からない。相手の目をみて分かるのは、自分の過去の体験を読み取ることであり、目を見て分かるのは思い込みの可能性も高い。相手の話をきいて理解し分かった時には必ず誤解が生じる。しかしコミュニケーションがなければそもそも何も分かることはない。従って誤解・錯覚承知で分かりあうのである。洞察という言い方はかなり深いものを察することだが、本当の洞察もたくさんのコミュニケーションからしか生まれない。お互い誤解・錯覚しながら理解・洞察を深めて初めて共有が生まれる。きずなもつらい体験をしながら、共有することで強くなっていく。自分が相手に傷ついた時に起こっている心的体験は、自分の規準が強すぎて、相手に不快感を感じてしまう体験という一面がある。ここで一歩引いて、ひょっとしたら自分の規準が強すぎたり、どちらかが正しいのではなく、相手とずれがあるからではないかと一考して相対化できるとよいのだが。