山本五十六

 昭和初期、人々が不況に喘ぎ、雇用不安と所得格差に苦しみ、総理がころころ変わっていた。日本がアメリカとの戦争に突入する流れのなか、山本五十六(役所広司)は日米開戦に反対し続けた。山本五十六は日米開戦時の連合長官だったため誤解されているが、実は海軍大臣米内光政(柄本明)、軍務局長井上成美(柳葉敏郎)の3人は必死に日米開戦を避けようとしていた。山本は日本とアメリカの国力の違い、総力戦争になること、日本が空襲されることなどを見抜いていた。しかし国論が戦争となった時、断固としてアメリカと戦うという姿勢を示し、責任感もなみなみならないものだった。開戦以来一度もぶれずに敵に戦意を失わせるほどダメージを与え講和に持ち込むという短期決戦を頭に描いていたが、日本軍部全体は気持ちだけが先走り、正確な分析なく猪突猛進した。真珠湾奇襲攻撃、ミッドウェー海戦、ガダルカナル奪回作戦、最後はブーゲンビル島上空で撃墜されて死んだが、信念はぶれずに軍人として生ききった。ソ連を敵にする日独伊三国防共協定までは認めたとしても、アメリカと敵対する三国同盟は何としても避けたかった。一時期快進撃を続けるドイツに幻惑され日本は三国同盟に突っ走る。東京日報主幹宗像(香川照之)などの報道陣も影響され軍部を助長する。しかもドイツはソ連と不可侵条約を結んだため、三国同盟はまさにアメリカと敵対するものになった。いったん決まった国策に山本は全身全霊をかけて従ったが、予想通りに日本は敗戦に進んでいくのであった。
 国家・軍部という大きな組織も人間の思い込みによって支配されることがあり、計算・理論が通用しなくなるのは知っておいたほうがよい。