桜田門外の変

 1860年2月水戸藩士・関鉄之介(大沢たかお)は妻ふさ(長谷川京子)と息子の誠一郎(加藤清史郎)との別れを告げ、水戸藩浪士達と大老井伊直弼(伊武雅刀)を暗殺するために江戸に出立する。大老襲撃は3月3日に決まり水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士有村次左衛門(板東已之助)を加えた18名の実行部隊が水戸藩尊皇攘夷派指導者金子孫二郎(柄本明)のもとに集まり、関は実行部隊の指揮を任される。凄惨な斬り合いの後、井伊の首をはねる。稲田重蔵(田中要次)が闘死、4人が自刃、8人が自首。その後金子や大沢は薩摩藩が挙兵して京都を幕府から切り離す倒幕の動きに加わるはずだった。しかし西郷が約束した挙兵は藩主が島津斉彬から久光側に移り薩摩藩挙兵は止められていた。金子や関は志半ばで追われる身になってしまった。そもそもペリーの黒船来航以後、和親条約、通商条約を要求された幕府は水戸斉昭(北大路欣也)などの尊王攘夷派と大老井伊直弼たちの開国派に別れて血と血であらう争いが起きつつあった。井伊は天皇の勅許をとらず通商条約を批准し、斉昭などの反対派を弾圧する(安政の大獄)。それに怒った尊王攘夷派の最初のころの蜂起であった。その後尊王攘夷派によって幕府は崩壊していく。一方水戸浪士たちは皆捉えられ殺されるのだが志半ばで無念の浪士たちもいただろうが、結局歴史は水戸浪士達の思想の流れにそっていった。
 自分の命をかけ信念を押し通すことは大事だが、この当時は暴力的で現在では相当残酷なことと思われ現在では合わないことも多いが、暴力以外で信念を貫くことの大事さが伝わってきた。