「花よりもなお」

 元禄15年冬・早春、江戸の貧乏長屋に青木宗左衛門(宗左)(岡田准一)は父の仇金沢十兵衛(浅野忠信)を江戸まで追って来て住み着いている。仇を見つけられず里からの仕送りも途絶えがちであった上に、長屋仲間の貞四郎に仇を見つけたと言われては風呂場や酒場で金を使わされ生活は苦しくなる一方である。そのため寺子屋を開いていたが、彼の楽しみは向かいに住む未亡人のおさえ(宮沢りえ)を見ることだった。ある日おさえの息子進之助に剣術を教えてくれと言われて教えようとした所、侍嫌いのいそ吉(加瀬亮)にこてんぱんに負かされた上に、花見の時期に長屋連中が催す敵討ちの芝居に本物の侍が本物の敵討ちと勘違いして助太刀に入ったため、敵役の宗左は一目散に逃げるしかなかったのである。
 ところでこの長屋には浅野内匠頭の敵を討とうとしている赤穂浪士も紛れ込んでいたのである。治療院の看板を揚げている首領格の小野寺十内のもとに患者を装って集まる赤穂浪士の男達はじりじり焦っていた。一向に敵討ちをしない宗左に小野寺は吉良の間者かもしれないと疑って配下の寺坂吉右衛門(寺島進)を宗左の所に送り込み碁を通して探りを入れるのであった。実はしばらく前に宗左は仇の金沢を見つけていたのだが、妻子と静かに暮らす金沢の姿や毎日楽天的に過ごす長屋の住人と交わるうちに敵討ちとは何なのかという疑問を持つようになっていた。さらにおさえ親子と権現様参りに行ったときにおさえの言った言葉「お父上が宗左さんに憎しみだけを残したのなら寂しすぎる」に胸を締め付けられる。実はおさえも夫の仇をもつ身であったのである。
 暮れも押し詰まってきた夜、寺坂とすっかり仲良くなった宗左は寺坂の「何とか武士らしい死に方ができれば息子は武士の子として生きていける」という言葉を聞いて宗左は決心をする。長屋の知識人重八(中村嘉葎雄)に脚本を書いてもらい、仇の金沢に仇討ちをしたことにする芝居のことを伝え、長屋の住人に芝居をしてもらい金沢が死んだことにして貞四郎の実家のお寺に埋めるまでを役人に検分してもらって、敵討ちに成功したことにすれば無事宗左はお国に帰れるのである。宗左達の芝居がうまくいった丁度その頃赤穂浪士の討ち入りがおこり、幕府は義士を切腹させるかどうかで窮地に陥るが結局切腹させる。
 宗左の友の寺坂は討ち入り出来ず、討ち入りしなかった腰抜け侍という庶民の批判が厳しく長屋に匿われていたが、赤穂浪士の魂を家族に伝える役割があるということで自信を取り戻す。時代の流れのなかで一人一人の行動は他人の噂や目を意識しつつも、本人の自信・肯定に繋がっていけることが大事だと思われた。