嵯峨野

 古代には山城国葛野郡に属していたが、平安時代には嵯峨と呼ばれるようになったのは栄えるのさかが関係しているらしい。しかしここは葬送の地でもあり嵯峨野とも呼ばれる。葬送の地としては化野と言われるところがあり化野念仏寺が有名である。諡号が嵯峨天皇である神野親王は大沢の池の畔に山荘を作り譲位後嵯峨院と称していた。ここが嵯峨天皇の死後大覚寺と改められる。大覚寺には生け花の一派嵯峨御流がある。嵯峨天皇の皇后は橘嘉智子であり、檀林皇后と言われていて皇后のために今はない檀林寺を造った秦家継は朝原宿禰姓を与えられた。嵯峨天皇は空海・橘逸勢とともに平安の三筆にも数えられている。